自閉スペクトラム症(ASD)と診断された5歳の娘に贈りたい 「徳川家康の遺訓」に込められた想い【大竹稽】
障害があるままに自由になる 第4回 〜徳川家康の障害〜
東大理三に入学するも現代医学に疑問に抱き退学、文転し再び東大に入る。東大大学院博士課程退学後はフランス思想を研究しながら、禅の実践を始め、現在「こども禅大学」を主宰する異色の哲学者・大竹稽氏。迷い、紆余曲折しながら生きることを全肯定する氏は、「障害」というテーマを哲学的に考察している。社会の趨勢を知る軸ともなる特別寄稿。第4回。
「障害と自由」をテーマにしたコラムは、ここで4回目。今回は、三河生まれの私にとって、最も馴染んできた戦国武将に登場してもらいます。
徳川家康です。
天下布武を成し遂げた三傑の中では、どうやら一番の人気ナシのようですが、彼こそ「障害があるままに自由になる」ことを教えてくれた人物です。そして彼の生き様は、私の娘の「重荷」との付きあい方のヒントになっています。
徳川家康の遺訓に「不自由を常と思えば不足なし」があります。全文を紹介しておきましょう。
「人の一生は重荷を負って遠き道を行くが如し。急ぐべからず。不自由を常と思えば不足なし。心に望み起こらば困窮したる時を思ひ出すべし。堪忍は無事長久の基。怒りは敵と思へ。勝事ばかり知りて、負くる事を知らざれば、害その身に至る。己を責めて人を責むるな。及ばざるは過ぎたるより勝れり」
根本的に、私たちは不自由である。そもそも「自分は自由である」なんて思い込みこそが己を縛ってしまうのです。なんでもできるという先入主こそが、いつまでも埋まらない不足の穴を生んでしまうのです。
禅の教えに、「自由」とともに引き合いに出される言葉があります。「任運」です。自分も他人もあるがままに受け入れることを意味します。絶対の受容です。
この絶対性をしばしば人間は見損なってしまいますが、どうしようもなく避けられない絶対の受容があります。それが我が子です。
私の娘は5歳の誕生日を迎えた3ヶ月後、今年の2月に「発達障害」の診断を受けました。自閉スペクトラム症、いわゆるASDです。
その診断を受けた場所には、もう一人、お母さんがおられました。診断を受けたお母さんは、気も狂わんばかりに涙を流していました。そして妻も、その日は放心状態になってしまったそうです。
いっぽうの私にとっては、「やっぱり!」が素直な気持ちでした。虫や花への興味、没頭する様子、マイペースにマイルール、「変わっている子だなぁ」という喜び。まるで自分を見ているようだったのです。得心しました。そして決意したのです。
その場の私は、医師や心理士たちに向かって「ヨシ!ワクワクする!」と言い放っていました。ずいぶん仰天したことでしょう。
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